全農チキンフーズ物語 1章
ブロイラー産業の誕生と成立
この50年間で、日本人は肉を多く食べるようになりました。
特に鶏肉は、年間一人当たりの消費量が4倍になり、いまや日本の食生活に欠かせない食材になっています。
しかし、もともと日本人は、いつから「鶏肉」を食べるようになったのでしょうか。
日本の食生活に欠かせない鶏肉
この50年間で日本の食生活は欧米化が進み、肉類を多く食べるようになりました。特に鶏肉は価格も手ごろで、良質なたんぱく質を含みながらカロリーも控えめなので、近年人気が高まっています。1人あたりの年間消費量では、2012年(平成24年)には鶏肉が豚肉を抜き、2021年(令和3年)には過去最高の14.4kgとなりました。鶏肉は現在、日本で最も消費量の多い肉類となっています。また鶏肉は、牛肉や豚肉に比べて国産の供給力(自給率)が高く、家計消費の大半を国産が占めているのも特徴です。いまは日本の食生活に欠かせない鶏肉ですが、このような歴史はそれほど長くはありません。日本人はいつから鶏肉を食べるようになったのでしょうか。

江戸時代から戦前までの食鳥文化
鳥が広く一般庶民にまで食べられるようになったのは、江戸時代からと言われています。鳥といっても、この時代は家禽ではなく主に野鳥でした。1643年に刊行された日本初の本格的料理書「料理物語」には野鳥の料理法が記され、食材として、「鶴(ツル)」「白鳥(ハクチョウ)」「鴨(カモ)」「雁(ガン)」「鷺(サギ)」「雉子(キジ)」「鶉(ウズラ)」「雀(スズメ)」などがあげられています。将軍や大名は鶴を汁物に、武士は雁や鴨を鍋で、庶民は雀を焼き鳥で楽しみました。
鳥料理の大衆化が始まるのは江戸時代中期の頃。1785年に刊行された料理書「万宝料理秘密箱」では全29種の鳥料理が紹介され、書物を通じて食鳥文化が広まりました。
江戸時代も後期になると、鳥料理は庶民にも浸透して行きます。鶏肉は京都や大阪では「かしわ」、江戸では「しゃも」と呼ばれ、ねぎと合わせて鍋として食べられました。坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺される直前に食べようとしていたのが「しゃも鍋」だったのは、時代劇などでも描かれる有名なエピソードです。
明治になると食鳥問屋も現れ、鶏肉料理を出す店も増えるようになります。ただ、この頃の養鶏は農家の副業程度に行われていたもので、鶏肉として出回るものは卵を産まないオスや、卵を産まなくなった廃鶏だけだったので、鶏肉の出荷量は少なく、一般には希少品として流通していました。 養鶏業に目をつけた人たちに、明治維新で禄を失った尾張の藩士たちがいました。彼らは「サムライ養鶏」と揶揄されながら、エサの改善や疾病対策など試行錯誤を繰り返しました。1882年(明治15年)頃、中国から輸入された「バフコーチン」という鶏と出会い、これに尾張産の地鶏を交配させて作り出したのが「名古屋コーチン」です。名古屋コーチンは肉質も産卵能力も良い上に病気にも強く、1905年(明治38年)に日本家禽協会から「国産実用品種第一号」の鶏として正式に認定され、日本各地に普及して行きました。
米国からのブロイラー輸入
戦後、在日米軍や外国人からの鶏肉需要が高まり、日本でのブロイラー生産が期待され始めます。「ブロイラー」とは、大量生産できるように品種改良した若鶏の総称。普通の鶏が成長するのに4~5ヶ月かかるのに対して、生後50日ほどで出荷できます。鶏舎では一度に数万羽が飼育され、エサ代も牛や豚より安価なので、多くの注目を集めました。
「ブロイラー産業」は飼育だけでなく、解体・加工や販売ルートの確保など、大規模なフードシステムの構築が不可欠です。このフードシステムは「インテグレーション」と呼ばれ、それまでの畜産業にはないものでした。
日本で最初のブロイラーの飼育は、1957年(昭和32年)に行われました。1879年(明治12年)創業で食鳥問屋をしていた東京・千住の「鳥市商店」が群馬県経済連と共同で、米国から輸入したブロイラーの試作飼育を行ったのです。この試作は大成功を収め、ブロイラー産業は“大規模で生産性の高い近代的な農業”として、商社が注目することになります。
新たなビジネスとして注目されるブロイラー産業
ブロイラー産業は、高度経済成長期の新ビジネスとして脚光を浴びて行きます。
総合商社は海外から穀物を輸入し、系列の工場で配合飼料を生産、農家と契約してブロイラーを飼育し、処理工場に出荷します。そして、系列の荷受を通し全国のスーパーマーケットなどに提供するという「商社系インテグレーション」を作り上げて行きます。
しかし1960年代は生産過剰や生産調整を繰り返し、販売競争の激化で価格を引き下げてしまうなど、まだまだ産業として不安定な時代でした。飼育方法の確立や資金調達面で苦労する農家もあり、商社系のインテグレーションだけでなく、農家に寄り添う「農協系インテグレーション」が求められて行きます。それは、商社系インテグレーションに対して、農家の利益を守り対抗すると同時に、農協自らが公正かつ自由な競争の一員として加わり、市場の安定と活性化を図ろうというものでした。


農協系インテグレーションの登場
1972年(昭和47年)3月、農協の購買部門である全国組織「全購連(全国購買農業協同組合連合会)」と、販売部門の全国組織「全販連(全国販売農業協同組合連合会)」が合併し、「全農(全国農業協同組合連合会)」が誕生しました。そして、農作物の全国販売体制を強化して行くことになります。高度経済成長期に食のマーケットは大きく拡大し、農作物は地域内での自給自足の枠にとどまらず、全国規模での販売を前提にした取り組みが不可欠な時代になっていました。 そして、1972年(昭和47年)9月、全農と株式会社鳥市の共同出資で、鶏肉の全国販売を手がける「株式会社全農鳥市」が誕生。これが現在の「全農チキンフーズ株式会社」の前身となります。ブロイラー産業における大規模な農協系インテグレーションの歴史は、ここから始まりました。