全農チキンフーズ物語 2章
農協系インテグレーションの変遷
ブロイラー産業を支える統合型フードシステム
ブロイラー産業は、“ただニワトリを育ててそのまま売る”のではなく、「生産・製造」「販売」などが統合された「インテグレーション」というフードシステムが不可欠な畜産業です。それは日本にとってこれまでにない取り組みであり、試行錯誤の連続でした。
全農鳥市時代:1972年(昭和47年)~
全農チキンフーズの原点「全農鳥市」
1972年(昭和47年)3月に、農協の全国規模での経済事業を担う組織として、購買事業と販売事業を統一した「全農」が誕生しました。全農は首都圏、関西、中京に集配センターを作る一方で、明治12年から続く老舗の食鳥問屋だった「株式会社鳥市」に相談を持ちかけます。そこで、全農50%、鳥市50%の出資で作った販売会社が、「株式会社全農鳥市」でした。全農が誕生してから半年後のことです。これが、現在の「全農チキンフーズ株式会社」の前身になりました。
事業拡大と進化を続ける「全農鳥市」の歩み
当時は荷受業務、つまり生産者の皆さまが作った鶏肉を仕入れ売り切る事業は全農の食鳥販売部門が担い、量販店や小売店への販売は全農鳥市が行いました。1983年(昭和58年)には全農鳥市が親会社の鳥市を吸収合併し、営業的な拡大を図ります。それに伴い、機構改革や流通合理化などを進め、全農鳥市は大きく進歩しました。
競争激化するブロイラー産業
全国規模で鶏肉の需要が高まって行くと、大量生産とコスト削減を兼ねられる生産者でなければ生き残れない時代になって行きます。それだけ、ブロイラー産業は巨大ビジネスへと成長していきました。1980年代中頃には、インテグレーション間で熾烈な競争を展開し、生産性や事業運営、コストに立ち遅れている事業体は生き残れない状況となりました。農協系インテグレーションは、生産・製造と地域の販売を担う「県別ブロイラー会社」と「大都市販売会社」で運営することとし、事業の合理化・改善が進まない事業体は撤退する方針を取り決めました。
全農チキンフーズ時代:1990年(平成2年)~
全農チキンフーズの誕生と農協系インテグレーションの変革
この方針にもとづき、1990年(平成2年)、全農鳥市は「全農チキンフーズ」に生まれ変わりました。これまでは「荷受」は全農の畜産販売部、「量販店・小売店への直接販売」は全農鳥市という役割分担でしたが、これを一本化します。これにより農協系インテグレーションにおいて、全農チキンフーズが全国区域の販売会社となりました。ほぼ同時期に、県域でも県別ブロイラー会社(宮崎くみあいチキンフーズ株式会社、鹿児島くみあいチキンフーズ株式会社など)が設立され、合理化を進めることとなったのです。
この事業改革は、ブロイラー業界全体が生き残るためとはいえ、生産者団体であるJAグループとしては苦渋の決断でした。合理化・改善が進まず一定の生産指標を達成できない県域は、早期に撤退していただく方針を進めました。1984年(昭和59年)当時は32県域で行っていたブロイラー事業も、現在では6県域となっています。
こうして、農協系インテグレーションのカタチは大きく変わりました。なお当時から、将来は「生産・製造」も「販売」も全て一本化して全国系統ブロイラー会社を設立するという構想も視野に入っていました。
荷受と直販が一体化されたことで、生産地から送られてきた鶏肉を無駄なく迅速に売り切る効率は向上しました。ブロイラー産業が始まった頃は「屠(と)体」と呼ばれる丸々一羽単位での流通が中心でしたが、この頃は「モモ肉」「ムネ肉」など部分肉の流通が中心になっていました。「モモ肉」は売れるが「ムネ肉」は売れ残ることが多く、「余ったムネ肉を加工品に回そう」などと判断するのも、荷受と直販が一体になっている方が速いのです。
また、様々なチャレンジも行われました。その1つが、通常のブロイラーとは飼育方法やエサの差別化を図った「銘柄鶏」です。こうした差別化商品は、品揃えとしては不可欠でした。さらにギフト向け商品を開発したり、直営の鶏肉料理店をオープンさせたりしました。それらは私たちの得意分野ではなかったかもしれませんが、当時のチャレンジは、その後の全農チキンフーズの原動力につながって行ったと思います。